日東紙工物語

マッチと共に育った少年時代。

圭の少年時代明治半ば頃より、播磨地方は家内作業としてのマッチの箱作り、ラベル貼りなどの手内職が盛んに行われていました。そんな中、大西廣松(圭の祖父)は明治33年(1900年)にマッチの小箱素地を製造する工場を作ります。そして大正12年(1923年)12月に、日東社燐寸製造所を設立し、マッチの製造を始めました。廣松の跡を継いだ二代目社長の大西貞三(圭の実父)は戦後、組織を株式会社化させると、生産設備の機械化を進め、日本全国に販売網を広げながら事業を拡大していきます。一方、圭は昭和12年(1937年)12月に姫路市東山にて、貞三の次男として生を受けます。東山の各家庭ではマッチの軸詰めの内職が盛んで、圭もよく手伝いをしていました。そして、貞三が設備の機械化に向け昼夜を問わず試行錯誤を繰り返しているのを、少年時代から傍で見てきた圭は、自然と機械を触ることが得意な理系少年になっていきます。「もっと効率よくマッチを作れないか」圭はマッチ業界で生きていく想いを強くしていきました。

マッチの化粧箱の製造から始まった創業期

創業期大学を卒業し、昭和36年4月(1961年)より、圭は(株)日東社燐寸製造所に入社します。圭の3歳年上の兄で長男の壬は先に専務取締役として営業部を任されており、圭は工場の生産現場で作業の効率化を図る指揮を執るようになりました。この頃は手作業だった製造作業が、どんどん機械化されている時期で、新しい機械が次々に導入されていました。マッチの製造専用の、初めて作られた第1号の機械ばかりです。これらの機械が順調に動くように、圭はカムを削ったり、チェーンのタイミングを微妙に調整したりと、油まみれになりながら調整をしていました。そして日々忙しく、現場作業に明け暮れていた圭に転機が訪れます。それは、今までマッチを20個ずつ包装していた梱包作業の効率化のために、マッチを100個入れる紙箱(=化粧箱)が開発されました。そして、この化粧箱を製造するのに新しい会社を立ち上げることになったのです。その会社が日東紙工(株)で、圭はその経営を任されます。昭和40年4月(1965年)のことでした。当初、日東社の敷地内で製箱機があるだけの小さな会社でしたが、一国一城の主となった圭は、「この会社を大きく立派な会社にしてやるぞ」と夢と希望でいっぱいでした。やがて、事業が軌道に乗ってくると現在社屋のある土地に工場を新設し、それと同時に製箱機の前工程に当たる製版、印刷、打抜の設備を一気に導入して、念願の一貫製造設備を擁するようになります。この時の資金調達では一から銀行と折衝を行い、名実共に経営者として認められるようになったのでした。

一般印刷紙器へと事業領域を広げていった発展期

発展期 一方、日東社はその頃、マッチ以外に、ポケットティッシュ、名入れライターの生産を始め、SP用品メーカーとして事業の拡大を図っていました。日東紙工は日東社の印刷工場として、マッチのシート印刷やポケットティッシュのラベル印刷、ライターの1ヶ箱の製造でフル稼働をするようになります。従業員は25名を越え、社内は活気に溢れていました。その後も機械の増設を進め、その生産規模を拡大していきますが、マッチの生産量は昭和48年(1973年)をピークに減少を始めます。圭は「今後の企業存続のためには、新たな業績の柱が必要だ。」と思い悩みます。そして昭和60年(1985年)、マッチの印刷が比較的小型の印刷機なのに対し、菊全判の大型印刷機と汎用の自動製箱機を導入し、一般紙器業界への進出を図ります。この決断は、今も日東紙工の主力製品として大きな転換となりました。一般紙器の製箱機は様々なパーツを自由に着脱させ、多種多様な箱を糊づけできる機械です。経験の無い分野でしたが、圭は社員さんと一緒になって機械操作を習熟していきます。マッチの機械いじりで培った技術力と創意工夫を活かし、自前の改良を取り入れながら、顧客から求められる品質をクリアーしていきました。

競争激化の時代へ 逆境に立ち向かう転換期

転換期平成に入りバブルが弾けると、求められる品質はますます高くなっていくにも関わらず、価格競争は激化していきました。当社の業績も頭打ちになる中、更なる生産性と品質の向上のため、様々な先進機器を導入し、顧客のニーズに追随していきます。そんな中、長年、圭の右腕として会社をまとめていた営業部長のTが病に倒れ、程なく他界してしまいます。取引先からの信頼も厚く、圭の良き相談相手だったTの死は、大変つらいものでした。また、大きな柱を失った現場はオペレーターの入退社が相次ぎ、円滑なコミュニケーションができなくなってしまいます。転換期が訪れているのは明白でした。圭が待ち望んだのは、後継者である息子、浩二のことでした。その時、圭は60歳で、浩二はまだ大学4年生でした。「浩二にバトンを渡すまでは、何とか踏みとどまらなくてはいけない。」圭は毎日製造ラインに入り、皆と一緒に汗をかきました。大学を卒業した浩二は2年間、神戸の印刷会社へ丁稚修行に出かけ、そして平成12年4月に日東紙工に入社します。次の時代を生き抜くために、会社に変革をもたらすのは、後継者に課された最大の課題でありました。

第二創業の時代、新しい日東紙工への変革期

変革期「社長の交代には10年かかる」浩二が圭から聞いた社長業の大変さを現す言葉でした。圭は現場を浩二に任せ、自分は一歩引いた形でサポートに徹しました。浩二は何とか半分の5年で形にしようと、本気になって現場を覚え、次々と作業の改善を進めていきました。強引に改革を推し進める中、従来のやり方に固執する社員さんと正面からぶつかりあうことは日常茶飯事でした。そして衝突の結果、会社を去る社員さんも後を絶ちませんでした。「会社は経営者の器以上に大きくはならない。」変革がうまく進まず、社員さんの心との乖離を感じ始めた浩二は、自分自身の経営者としての質を高める必要性を感じ始めます。「もっと世間を知らなければならない。もっとすばらしい経営者に学ばねばならない。」浩二は異業種に学んだり、外部研修を受講したりしながら、浩二は経営者の資質を学んでいきました。そして原点に立ち戻り、自分は何の為にこの会社を経営をするのか、日東紙工は何の為に存在しているのかを真剣に考えるようになりました。

ものづくりはひとづくりから。一つ一つにこだわりとまごころを込めて。

現在「ものづくりの基本は整理整頓。整理整頓されたきれいな現場からしか良い製品はできてこない」圭が常日頃よく言っていた言葉でした。物の整理整頓が進めば、人の心もきれいになる。そうやって、初めて良い製品ができてくる。どんなに機械化が進もうとも、機械を操作するのが人の手である以上、ものづくりの良し悪しはひとづくりの良し悪しで決まるのです。ものづくりの原理原則に気づいた浩二は、現場の整理整頓を会社の基本戦略と位置づけ、社員教育と絡めて徹底的に取組みます。以来、社員さん達が創意工夫をしながら現場をきれいにし、そのためにコミュニケーションも活発になり、チーム力で事にあたる社風に変わってきています。一人ひとりが良い製品を作るためにこだわりを持って、自分の全力でもってあたり、そしてお客さまのお役にたてることを最高の喜びとする。そんな会社になりつつあります。これこそ、浩二がありたいと願う会社像であり、日東紙工の経営理念なのです。 一つ一つの製品にこだわりとまごころを込めて。